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注:「1.心身問題と自由意志の問題を解決する」の補説です。「1.心身問題と自由意志の問題を解決する」を読んでいることを前提として書かれています(参照)。
この世界が物理学的決定論に基づく世界であることが判明し、これまで受け入れてきた自由意志が錯覚に過ぎないものだということになったら、あなたはどうしますか。何をやっても、それは既に決定されていたことということになるのです。全てを決定論のせいにしてやりたい放題好きなことをやりますか。皆がそうすれば、きっと人間社会は大混乱に陥ることでしょう。 しかし、考えて下さい。その際、自分の行動の選択から逃れることができると思いますか。決定論に基づく世界であることを知った途端、自分の行動の選択をせずに済むことになると思いますか。そのようなことにはなりません。これまで通り、どう行動したらよいか悩むのです。そう考えるのが自然だと思いませんか。決定論に基づく世界であるということを知っただけで、これまでやってきた行動の選択から私達が解放されたりはしないのです。 もしもそうだとすれば、これまで通りの自由意志を互いに認め合って社会生活を営むことができるとは思いませんか。しかし、それができるのだとすると、それはどういうことを意味するのでしょうか。なぜ、決定論の世界であっても、これまで通りの自由意志を互いに認め合うことができるのでしょうか。それは、元々、私達が自由意志と呼んできたものが、決定論と対立するようなものではないからだとは思いませんか。私達が捉えてきた自由意志というものが、決定論に基づく世界でも成り立つようなものだからだとは思いませんか。 視点を変えましょう。この世界が物理学的決定論に基づく世界であることが判明し、私達が受け入れてきた自由意志は単なる錯覚に過ぎないものだと説明されたとしましょう。あなたは、ただそれだけで素直に納得し、引き下がりますか。きっと、私達が受け入れてきた自由意志とその決定論の間にあるギャップを埋めてくれる説明を要求するでしょう。時枝の説く自由意志は、そのギャップを埋めてくれるものなのです。決定論に基づく世界であるか否かにかかわらず成立する自由意志なのですから。 注:物理学的決定論に基づく世界であることが判明したとしましょう。それは、これまでその物理学的決定論の下でも私達は自由意志を持っていたということを意味します。すなわち現在、私達が捉えている自由意志というものは、物理学的決定論と対立するようなものではないということになります。したがって、物理学的決定論の可能性を考慮するなら、私達が捉えている自由意志というのは、物理学的決定論の下でも成立するようなものとして説明されなければなりません。 参照:「自由意志に関する理論と決定論」 「補説(物理学的決定論と神の自由意志)」
by f-tokieda
| 2006-08-30 22:43
| 心身問題・自由意志
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