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はじめに、いくつか言葉を覚えてもらわなければなりません。時枝の理論で用いられる特殊な言葉です。これらは時枝が作った言葉(概念)ですので、辞書には載っていません。 「外部確定性(がいぶかくていせい)」 簡単に言うと、目で見、耳で聞いて同じ変化が起こったと誰もが認めることのできる事柄に対し、「外部確定性がある」と言います。また、語られた内容が「外部確定性がある」こととして確かめられるようなものであるとき、その語られた内容は「外部確定性に支えられている」と言います。 「言命(げんめい)」 一つ一つの言葉(単語)について真理か否かが問われることはありません。真理か否かが問われるのは、言葉によって語られた内容についてです。語られた内容について、時枝の理論においては「言命」という言葉が導入されます。 文の伝達内容に現実性を与えたものを「言命」と呼びます。例えば、「太陽は地球の周りを回っている」は、文としては正しい。実際、「太陽は地球の周りを回っている」を正しいことと信じられていた時期もあったのです。しかし、現実には、地球の方が太陽の周りを回っているのですから、言命としては間違っていることになります。また、「手を洗いなさい」は、文として与えられたとすれば行動引き起こしませんが、言命として与えられたとすれば現実に行動を引き起こします。私達が日常生活でやりとりしているのは、文ではなく、まさしくこの「言命」なのです。「言命」とは何なのか、分かっていただけたでしょうか。 それでも分からない人のために。例えば、英語の授業中に居眠りをしていたあなたが、「立ちなさい」という先生の言葉に反応して実際に立ち上がってしまったとすれば、あなたはその「立ちなさい」を言命として受け取ったことになります。英語の命令文の学習をしていた他の者にとっては、その「立ちなさい」は単なる文なのです。 同じく英語の授業中です。「I love you.」を日本語訳する問題が出されています。ある女の子が先生に向かって「私はあなたを愛しています」と答えたとしましょう。先生がその言葉を言命として受け取ったとすれば、彼は異常です。その理由はもう、お分かりでしょう。 言命のうちで「正しいか否か」を問うことができる性格を持ったものは、単にある事柄を述べただけでなく、その事柄の内容が現実に正しいという主張だと見ることができます。ですから、「その言命は正しい」などと、言命に対しては、直接に「正しい」とか「間違っている」とか言うことができます。 <真理とは> 言葉は不確定性を免れることができません。それでは、その不確定な言葉を用いて語られた言命が「正しい」とか「間違っている」とかをどのように判断したらよいのでしょうか。その言命が個人の妄想でないとすれば、誰にでも納得できる形でその正しさが示されなければなりません。そこで登場するが、「外部確定性」です。 時枝の理論では、より確かな知識の根拠を外部確定性に置きます。より強く「外部確定性に支えられた言命」を、より真理性の高いものとします。 「外部確定性に支えられた言命」と言えば、自然科学(経験科学)における言命が典型的なものです。ところが、自然科学上の知識の歴史を振り返ると明らかなように、科学の進歩によって正しいとされる言命が覆されたり訂正されたりします。従来の理論がもっと大きな理論の特別な場合に過ぎなかったということになることもあります。どうも、外部確定性に基づく知識は、絶対的な真理性を保障されたものとは言えそうもありません。 絶対的な真理性を保障してくれそうもないことに真理性の根拠を置くべきではない。そのように主張される方がきっといらっしゃることでしょう。しかしそれは、絶対的な真理なるものを手にすることができるという前提の下での話です。そのような前提を蹴飛ばしてしまえば、何の問題にもなりません。絶対的な真理などというものを想定するから、言葉によって捉えたものの背後に確固たる存在(実体)があるなどと考えることになるのです。そのような存在を否定した以上、「絶対的真理」などというものに縛られる必要はありません。 「どこかに真理が存在する世界があって、そこから真理を引き出してくる」とか、「心に、真理かどうかを見極める能力が元々ある」などという、正しいか否かを確かめようのない説明を認識基礎論は拒否します。説明に都合がよいからと言って特別な存在を勝手に持ち出すようなことを認めません。そのような無理な説明をしなくても、いや、そうしないことで初めて知識の世界の実情を説明できるのです。 「5.真理性の判断」へ
by f-tokieda
| 2005-10-08 09:56
| 時枝の理論の概要
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