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言葉とは何か、真理とは何か

言葉とは一体何なのでしょうか
言葉を用いて私達は何を語ることができるのでしょうか
真理を語ることができるのでしょうか

最終更新日 2009.9.1
更新メモ
掲示板

実践的入門編「認識基礎論入門」へ

「認識基礎論」は、言葉が不確定なものであることを前
提とした理論を構築することで、認識上の混乱を解消し
ます。言葉によって語られた事柄の真理性の判断基準
を示し、哲学の根本的な問題に答えます。しかし、真理
性を問題にするのは、言語活動の特別な場合でしかあ
りません。認識基礎論は、真理性とは無縁の言語活動
を含めたあらゆる言語活動の基礎となる理論なのです.

ここに書かれている事柄は、拙著
「言葉と真理」及び「象のシッポ」
の内容を更に発展させたものです

E-mail: f_tokieda@yahoo.co.jp



コメントの仕方
# by f-tokieda | 2010-12-31 10:00 | Top Page | Comments(0)
[法律の根本問題]の記事目次
1.法律と真理 (2007.2.24)
2.法律についてまともな議論をするために (2007.2.28)
3.補説1(法律の形式的な適用について) (2007.3.3)
4.補説2(社会のあり方に関する理論の限界) (2007.3.13)
5.法文の曖昧さと統制目的 (2007.3.28)
6.(受動的)自由意志と責任 (2007.12.31)
7.行動を操るパイロットと法律 (2009.7.12)
8.なぜ故意にやったか否かで罰の重さを変えるのか (2009.7.19)
9.環境責任論 (2009.7.23)
10.(付録)法理論における「自由意志と決定論の問題」
                            (2009.7.24)
11.法律に賛同してもらうには (2009.7.27)


参考「人々のための法律」(認識基礎論入門)(2007.3.16)
   「刑罰のあり方」(認識基礎論入門)(2009.8.4)

注:今のところ実際の記事順とは逆になっています。























# by f-tokieda | 2010-12-28 14:44 | 法律の根本問題
記事目次
1.「象のシッポ 科学・認識・存在」
2.「象のシッポ」の訂正
3.「象のシッポ」を読んで(元神戸大学教授 M.M.氏)
4.「象のシッポ」を読んで(元神戸大学教授 T.M.氏)
# by f-tokieda | 2010-11-30 09:33 | 著書「象のシッポ」 | Comments(0)
用語の解説
時枝の理論で用いられる独自の用語の解説をここで行います。随時、足していきます。

☆行動決定ブラックボックス
☆内部入力によるパターン弁別
☆手がかり足がかり











# by f-tokieda | 2010-06-20 22:27 | 用語の解説
更新メモ
                              Top Page へ


2009年9月1日
[法律の根本問題]の「なぜ故意にやったか否かで罰の重さを変えるのか」に加筆。
理解のしやすさを考えて、「2.なぜ、思いや置かれていた状況を考慮に入れて罰の重さを決めるのか」に段落を2つ、注:を2つ追加しました。

2009年7月27日
[法律の根本問題]に、「法律に賛同してもらうには」」を投稿。

2009年7月24日
[法律の根本問題]に、「(付録)法理論における「自由意志と決定論の問題」」を投稿。

2009年7月23日
[法律の根本問題]に、「環境責任論」を投稿。

2009年7月23日
[用語の解説]に、「手がかり足がかり」を投稿。

2009年7月19日
[法律の根本問題]に、「なぜ故意にやったか否かで罰の重さを変えるのか」を投稿。

2009年7月12日
[法律の根本問題]に、「行動を操るパイロットと法律」を投稿。

2009年7月4日
[現在の取り組み]に、「現在、取り組んでいるテーマ」を投稿。

2008年4月9日
[心身問題・自由意志]に、「補説(物理学的決定論と神の自由意志)」を投稿。

2008年4月4日
[心身問題・自由意志]に、「決定論の世界における責任の問題」を投稿。

2008年4月1日
[心身問題・自由意志]に、「決定論の世界における自由意志の問題」を投稿。

2008年3月27日
[心身問題・自由意志]に、「自由意志は未来を決定するか」を投稿。

2008年3月24日
[心身問題・自由意志]に、「自由意志に関する理論と決定論」を投稿。

2008年3月21日
[現在の取り組み]に、「現在やっていること」を投稿。

2007年12月31日
[法律の根本問題]に、「(受動的)自由意志と責任」を投稿。

2007年12月29日
[論理について]に、「時枝のナイフ」を投稿。

2007年10月9日
カテゴリ[意味論]の「意味論」にコメント(岡山峰子さんへ)

2007年9月28日
[行動の説明]に、「心の奥底の思い」を投稿。

2007年9月24日
新カテゴリ[行動の説]を設け、「行動の説明1(行動の理由とは何か)」を投稿。

2007年8月21日
[心身問題・自由意志]の「補説(自由意志と決定論)」に、注 を追記。

2007年7月31日
[現在の取り組み]に「現在取り組み」を投稿。

2007年6月15日
[論理について]に、「行動統制の言命と論理」と「補説(論理的正しさと例外の容認)」を投稿。

2007年6月14日
[論理について]に、「行動形成のための論理」を投稿。

2007年6月7日
[論理について]に、「真理を導くことを前提としない論理」を投稿。

2007年6月5日
新カテゴリ[論理について]を設け、「論理における言命の適用範囲の問題」を投稿。

2007年4月10日
[意味論]に、「使用概念域(実践的意味論)」を投稿。

2007年3月28日
[法律の根本問題]に、「法文の曖昧さと統制目的」を投稿。

2007年3月26日
[行動統制の言命]に「補説(統制目的付きの行動統制の言命)」を投稿。

2007年3月22日
[行動統制の言命]に「統制目的の検討について」を投稿。

2007年3月13日
[法律の根本問題]に、「補説2(社会のあり方に関する理論の限界)」を投稿。

2007年3月8日
[行動統制の言命]に「補説(特定の行動統制の言命を受け入れる根拠)」を投稿。

2007年3月3日
[法律の根本問題]に、「補説(法律の形式的な適用について)」を投稿。

2007年2月28日
[法律の根本問題]に、「法律についてまともな議論をするために」を投稿。

2007年2月24日
新カテゴリ[法律の根本問題]を設け、「法律と真理」を投稿。

2007年2月17日
[行動統制の言命]に「過度な行動統制を抑制するために」を投稿。

2007年2月15日
[行動統制の言命]に「補説(行動統制の言命は真理ではない?)」を投稿。

2007年2月14日
新カテゴリ[行動統制の言命]を設け、「行動統制の目的を設定する意義」を投稿。

2006年11月22日
[言語活動の基礎理論]に「補説(真理性とは異なった面から言命を取り扱う意義)」を投稿。
また、カテゴリ名[認識基礎論の概要]を[時枝の理論の概要]に変更。

2006年11月10日
[現在の取り組み]に「現在取り組んでいるテーマ」投稿。

2006年11月4日
[言語活動の基礎理論]に「言命の実用性」を投稿。

2006年11月3日
[現在の取り組み]に投稿。

2006年11月2日
[言語活動の基礎理論]の「行動を統制する言命」に、「象のシッポ」より抜粋したものを追記。 また、[用語索引]も作り始めました。

2006年11月1日
[言語活動の基礎理論]に「真理性とは異なった面から言命を取り扱う」を投稿。

2006年9月30日
[心身問題・自由意志]に「能動的自由意志と受動的自由意志」を投稿。

2006年9月23日
[心身問題・自由意志]に「見かけ上の自由意志と哲学の限界」を投稿。

2006年8月30日
[心身問題・自由意志]に「補説(自由意志と決定論)」を投稿。

2006年7月14日
カテゴリ名[認識基礎論の土台]を[基礎論の基礎的理論]に変更。
その[基礎論の基礎的理論]に「認識対象とモデル」を投稿。

2006年7月12日
[認識基礎論の概要]に「行動を統制する言命」を投稿。

2006年6月27日
新カテゴリ[心身問題・自由意志]に「心身問題と自由意志の問題を解決する」を投稿。

2006年6月20日
[用語の解説]に「行動決定ブラックボックス」を投稿。

2006年6月18日
新カテゴリ[用語の解説]に「内部入力によるパターン弁別」を投稿。

2006年6月17日
[現在の取り組み]に投稿。

2006年6月8日
[存在と認識]に「実在か否かの判断基準」を投稿。

2006年6月5日
[存在と認識]に「存在の認識に対する相対性を処理する」を投稿。

2006年6月4日
[認識基礎論の概要]の「意味論」に「補説」を書き加える。

2006年6月3日
[存在と認識]に「存在の相対性に向けた反論に対して」を投稿。

2006年6月2日
[意味論]に「概念の不確定性と外部確定性」を投稿。

2006年5月31日
[認識基礎論の概要]の「従来の認識論(epistemology)との違い」に加筆。

2006年5月28日
[意味論]に「概念と具体的な弁別対象」を投稿。

2006年5月18日
「実在」と単なる存在とを明確に区別して論ずるために、既投稿の記事の一部に手を加える。

2006年5月17日
[存在と認識]に「実在の背後にある確固たる存在」を投稿。

2006年4月29日
[意味論]に「言葉が指し示すもの」を投稿。

2006年4月1日
[認識基礎論の概要]の「実在とは何か」に、「6.まとめ」を追記。

2006年3月26日
[現在の取り組み]及び掲示板に投稿。

2006年1月28日
[意味論]に「単語と意味」を投稿。

2006年1月22日
[認識基礎論の概要]に「存在とは何か」を投稿。

2006年1月21日
[認識基礎論の概要]の「実在とは何か」に、認識基礎論入門「心は実在するか」へのリンクを付記。

2006年1月7日
[認識基礎論の概要]に「実在とは何か」を投稿。

2006年1月3日
[相対的世界観の認識論]に「相対的世界観へのステップ」を投稿。

2005年12月5日
[認識基礎論の概要]の「真理性の判断」に加筆。

2005年11月2日
カテゴリ[認識基礎論への道]の中の記事を整理する。

2005年10月29日
[認識基礎論の概要]に「従来の認識論(epistemology)との違い」を投稿。

2005年10月27日
[認識基礎論の概要]に「言葉の取り扱い」を投稿。

2005年10月26日
新カテゴリ[認識基礎論の概要]を設ける。

2005年10月14日
[認識基礎論の土台]に「ブラックボックスによる説明」を投稿。

2005年10月13日
[言語活動の基礎理論]に「行動を形成する言命」を投稿。

2005年9月29日
[現在の取り組み]に 投稿。

2005年9月25日
[Top Page] をリニューアル。このサイトを理論編、「認識基礎論入門」をその実践編とする。

2005年9月23日
新カテゴリ[認識基礎論の土台]に、「従来の哲学との決別」と「認識基礎論を構築するための要件」を投稿。

2005年9月21日
「言語活動の基礎理論として」に加筆。

2005年9月15日
[言語活動の基礎理論]に「言語活動の基礎理論として」を投稿。

2005年8月13日
「意味論」に投稿。

2005年8月12日
認識基礎論入門を独立させる。

2005年8月11日
ブログタイトルを変更。
[現在の取り組み]に、「ブログタイトルの変更」を投稿。
認識基礎論入門の「意味論」に加筆。

2005年8月7日
認識基礎論入門に「はじめに」を投稿。
「認識基礎論入門」を非公開から公開へ変更。

2005年8月5日
認識基礎論入門の「意味論」の「もっと深く知りたい」に追記。

2005年7月29日
認識基礎論入門に記事を掲載。「真理とは」(まだ作成の途中ですが)

2005年7月18日
認識基礎論入門に記事を掲載。「Top Page」と「意味論」

2005年7月1日
認識基礎論の入門編を別ブログにて作成中

2005年6月29日
[現在の取り組み]に<時枝の理論における概念の分析方法>を追加。

2005年6月22日
[Top Page] をリニューアル。掲示板(リンク)をメモ帳欄に設置。

2005年6月20日
[認識基礎論]に 「認識基礎論への道」を追加。

2005年6月19日
掲示板を設置しました。 Top Page から掲示板に行けます。

2005年6月18日
「相対的世界観の認識論」 を追加。

2005年6月17日
[現在の取り組み]に 「これからやるべきこと」を追加。

2005年6月15日
[認識基礎論]に加筆。

2005年6月2日
[認識基礎論]に<時枝の理論で用いられる特殊な言葉>を追加。

2005年5月29日
[哲学諸問題の解決]を追加。
    <時枝の理論による哲学上の問題の解決及び解消>

2005年4月20日
このホームページを開設。

# by f-tokieda | 2009-12-30 20:37 | Top Page
[心身問題・自由意志]の記事目次
1.心身問題と自由意志の問題を解決する
2.補説(自由意志と決定論)
3.見かけ上の自由意志と哲学の限界
4.能動的自由意志と受動的自由意志
5.自由意志に関する理論と決定論 (2008.3.24)
6.補説(物理学的決定論と神の自由意志) (2008.4.9)
7.自由意志は未来を決定するか (2008.3.27) 
8.決定論の世界における自由意志の問題 (2008.4.1)
9.決定論の世界における責任の問題 (2008.4.4)

参考:「(受動的)自由意志と責任」(法律の根本問題)
    「行動を操るパイロットと法律」(法律の根本問題)
    「(付録)法理論における「自由意志と決定論の問題」」(法律の根本問題)

注:1.を読んでいないと、2.、3.、4.は理解できません。
注:今のところ実際の記事順は逆になっています。
# by f-tokieda | 2009-12-30 10:34 | 心身問題・自由意志
法律に賛同してもらうには
 実質的に国民が法律の成立を担っている民主主義国家における法律に関してです。ただし、ここで念頭に置いているのは刑罰を規定した法律(刑法)です。

1.真理だから賛同するのか
 例えば、ある法律を成立させたいと思えば、他の人にもその法律に賛同してもらわねばなりません。しかし、法律は行動統制の言命です。行動統制の言命は真理とは無縁のものです。ですから、真理であるという理由で賛同してもらうことはできません。もっとも、真理であると相手に勘違いさせることに成功すれば賛同してもらえるでしょう。しかし、そのような場合は除いておくことにします。ここでは如何なる法律も真理ではないことを互いに承知していることを前提に話を進めます。

 実際のところ、私達が特定の行動統制の言命に賛同するのは、どのような場合でしょうか。真理だからという理由で賛同するのでないとしたら、例えば、その言命が自分の価値観に沿ったものである場合、あるいは少なくともそれに反しない場合です。また、その言命を発せざる得ない状況にある人に同情した場合もそうでしょう。

 法律が真理とは無縁のものである以上、私達が特定の法律の正当性や不当性について語る場合、どのように語ろうとも最終的には、相手の価値観や同情心など、真理とは無縁のことに訴えることになるのです。あなたが説得に成功したとしても、その法律が真理だからではありません。あなたの主張が相手の価値観に沿ったものであったり、相手の同情心をひきおこすものであったりしたからです。

2.その法律に関連する事柄の真理性
 ところで、賛同を得るためには、その法律が、相手が正しいと信じている事柄に反しないものでなくてはなりません。そうでない場合に賛同を得るためには、まず、正しいと信じているその事柄が実はそうではないことを示してやらねばなりません。そういう意味で、法律自体は真理ではないとしても、それに賛同してもらう際には、その法律に関連する事柄の真理性を問題にしなければならないことがあります。

 極端な例ですが、その人が神の存在を信じていれば、「宗教を禁止すべきだ」などというような法律には絶対に賛同しないでしょう。それでもどうしても賛同してもらいたいと思うのなら、まずは神が存在しないことを納得してもらわなければなりません。
 勘違いしてはいけません。実際に神が存在しないとしても、それが「宗教を禁止すべきだ」ということには直結しません。神が存在しないことは「宗教を禁止すべきだ」という行動統制の言命を真理に導いたりはしません(→「時枝のナイフ」)。

 このように、行動統制の言命に賛同を求める場合、相手を説得するためには、それに関連する事柄の真理性を問題にする必要が生じることがあります。普通、ほとんどの人が正しいと信じている事柄、特に相手も自分も正しいと信じている事柄に反するような法律に賛同を求めたりはしません。しかし、誰もが信じてきたことが正しいこととは限りません。それを正した上で賛同を求める場合は大変な苦労が伴います。

注:特定の法律への賛同を支えてくれる真理はあったとしても、特定の法律が真理であることを支える真理はありません。

3.統制目的を掲げる
 法律が真理とは無縁のものであるために、特定の法律の正当性を問う議論が自分たちの価値観や願望の単なる押し付け合いということになりがちです。しかし、それを回避する方法があります。時枝の理論に慣れた方なら、もう、お分かりでしょう。個々の法律は行動統制の言命ですから、統制目的を設定するのです。

 相手にも受け入れてもらえる統制目的を掲げた上で、その法律への賛同を求めるのです。そうすれば、議論はその統制目的を達成する効果があるか否かという真理性を問うものになります。真理とは無縁の行動統制の言命であっても、統制目的を達成する効果があるか否かという点についてなら、真理性を問う議論ができるのです(→「行動統制の目的を設定する意義」)。

 もちろん、そうしなければならないとか、そうする以外に手はないなどと言っているのではありません。現実問題として、互いに共有できる統制目的を見出すことができるとは限りません。そのようなことはしなくても、直接、相手の価値観や同情心などに訴えて賛同を求めてもよいのです。ただ、このとき大切なのは、自分が賛同を求めている法律は決して真理などではないという自覚です。

4.専門家たちの姿勢
 残念ながら、法律の専門家と称する人達の一部に、その自覚のない人たちがいます。例えば、特定の法律に賛同する一般の人々に対して、「素朴な正義感に過ぎない」とか「単なる同情に過ぎない」などという非難を浴びせかけます。彼等は、専門的な知識をちらつかせ、一般の人々の主張を素人のたわごととして退けることで、結果として自分たちが賛同する法律のみが正しいものであるかの如く語ってしまいます。あるいは、結果として法律の現状維持を認めさせることで、現在定められている法律が真理であるかの如く相手に思わせてしまいます。

 しかし、彼等とて、自分たちが特定の法律への賛同を求めるときは、相手の価値観や同情心などに訴えることになるのです。彼等が、一般の人に、法律への賛同に際し、もっと色々な角度から様々な状況を考慮してもらいたいと思って意見を述べるときにも、最終的には相手の価値観や同情心などに訴えることになるのです。もともと、法律自体に真理性のかけらなど一片もありはしないのですから当然のことなのです。

 誤解しないで下さい。法律に携わる大部分の人達は、特定の法律に対する自分の意見を述べる際、法律というのは人々の考え方次第でどうにでもなるものだということを必ず何らかの形で表明しています。法律が単なる約束事に過ぎないという認識の下で語っています。書物上の理解で終わらず、実際の運用を通して多くの経験を積んだ人ほどその傾向が強いと言えます。

5.既成の法律との整合性の問題
 法律の専門家は、その法律が成立した場合に、どのような不都合が生じるかを指摘できる知識を持っています。ですから、彼等の意見に耳を傾ける必要があります。しかし、どこに不都合が生じようとも、それを理由に引き下がる必要はありません。

 「不都合」とは言っても、ほとんどは既成の法律との整合性の問題です。法律は、見かけ上の自由意志を前提にして成立しているのですから、整合性が取れないことがあって当たり前なのです。それが見かけ上のことを正しいこととして扱うことに対する代償なのです(→「行動を操るパイロットと法律」)。実際、経験豊かな法律の専門家で、現在の法律においても整合性の取れていない部分があることを認識していない人は、まず、いないでしょう。

 新しい法律を定めたときに、あるいは法律を改正したときに、既成の法律との間に整合性の問題が出てくるのは普通のことなのです。整合性が取れないという理由で法律案を引っ込めようとするのも、それを葬り去ろうとするのも、愚かなことです。整合性の問題を専門家に指摘されたからと言って、ひるむことはありません。整合性の解決にどうしても必要なら、別の法律の改正も同時に求めればよいのです。

 如何なる法律も真理ではありません。民主主義国家における法律は、多数の人々の賛同で決まるのです。多数の人々の価値観とか同情心などで決まるのです。既成の法律との整合性の問題を指摘されたからといって、諦めてはなりません。
# by f-tokieda | 2009-07-27 09:27 | 法律の根本問題 | Comments(0)
(付録)法理論における「自由意志と決定論の問題」
 同じ「自由意志と決定論」というテーマを掲げていても、ここでいう「決定論」は、「物理学的決定論」とは全く異なるものです(→「心身問題と自由意志の問題を解決する」)。当然、「自由意志と決定論の問題」の中身も全く異なります。ここでは、考え方が理解できればよいものとし、簡単に述べておきます。

 自由意志は何ものにも制約されない。自由意志による行動決定はその人が育った環境などに左右される(決定される)ものではない。そのような考え方があります。
 それに対して、次のような考え方もあります。何ものにも制約されない自由意志などというものはなく、自由意志による行動決定自体が、その人が育った環境などによって左右される。それは避けようのないことであり、本人にはどうしようもないことだ。そのような考え方です。それは、法律の理論を論ずる人達の間で「(環境)決定論」と呼ばれることがあります。

 人は、人を裁く際に、時には自由意志による行動決定を何ものにも左右されないものとして扱い、また時には育った環境などによって左右されてしまうものとして扱います。そのため、裁きの現場で混乱が生じます。そのことについて「自由意志と決定論」というテーマで議論されることがあります。問題が生じるのは、「環境によって決定されてしまう部分は本人にとってはどうしようもないことなのだから減刑してやるべきだ」という主張がなされたときです。それを認めるか否かで、刑の重さを変えなければなりません。それは裁く側にとっても裁かれる側にとっても見過ごすことのできない大きな問題です。

 法理論における「自由意志と決定論の問題」というテーマ設定は、もはや時枝の理論では不要です。このテーマに関連することは「環境責任論」で取りあげています。

注:もちろん、行動決定に関わる環境要因は、ここで挙げた「育った環境」だけではありません。一つの例として挙げただけです。法理論における「自由意志と決定論の問題」が、物理学が出発点となる「自由意志と決定論の問題」とは全く異なるものであること理解してもらえさえすればよいのです。(参考:「補説(自由意志と決定論)」)
# by f-tokieda | 2009-07-24 15:24 | 法律の根本問題 | Comments(0)
環境責任論
1.環境に責任を負わせる
 現代の法律は、裁かれる人が置かれていた状況次第で、刑罰の重さを変えています。例えば、その人が置かれていた環境を考慮して減刑したり刑罰を免除するということが行われています。生じた事態だけで判断して罰したりしません。それは、どうしてなのでしょうか。

 人間社会は、本人にはどうしようもなかったことであれば、罰を軽くしたり免除したりしています。それは、時をかけて成立するに至った人間社会の行動統制の形態の一つなのです(「なぜ故意にやったか否かで罰の重さを変えるのか」)。そのどうしようもなかった理由を、その人が置かれていた環境に求めることがあります。要するに、行動決定の責任を環境に負わせるのです。その分、本人の責任を軽くしてやります。ここでは、その「環境に責任を負わせる」ということについて考察します。

 ここで言う「環境」とは、行動決定ブラックボックスの行動決定に影響を及ぼす全ての要因です。ただし、実際に責任を負わされる対象となる環境はその一部です。分かりやすく言うと、例えば、「知的障害」、「精神障害」、「育てられた特殊な環境」、「洗脳」、「薬物投与などによる一時的異常」など、行動決定ブラックボックスの行動決定を左右する様々な要因が「責任を負わされる環境」ということになります。

 問題は、「行動決定のどの範囲までを環境の責任として認めるか」ということになります。そのこと関する論議を「環境責任論」と呼ぶことにします。ふつう、行動決定の責任は自由意志にあるとされます。ですから、環境責任論は、自由意志による行動決定と関連させて語られることになります。

2.自由意志と環境責任論
 人間は行動決定ブラックボックスのなすがままに行動させられています。自由意志による行動決定は見かけ上のものに過ぎません。したがって、行動決定の責任を自由意志に負わせることはできません。そういう意味では、行動決定の責任を負わせることのできるのは環境だけです。つまり、全ての行動決定の責任は環境にあるということです。しかし、自由意志による行動決定を無視することはできません。それは、なぜでしょうか。

 日常、人間は行動を操るパイロットとして生活しています。互いを行動を操るパイロットと見なすのをやめることはできません。人間の社会は、「互いを行動を操るパイロットと見なして責任を負わせる」という行動統制の形態を捨てることはできません(「行動を操るパイロットと法律」)。その行動を操るパイロットの行動決定を「自由意志による行動決定」と呼んでいます。互いを行動を操るパイロットと見なすのをやめることができない以上、「自由意志による行動決定」ということを捨て去ることはできないのです。

 そうである以上、実際の取り扱いにおいて、形の上で、自由意志による行動決定のほうを優先させ、環境による行動決定への影響を二次的なものとして扱うのはやむを得ません。そうしなければ自由意志を前提として生活している私達には互いを理解し合えません。もちろん、見かけ上のものを前提にするからには、その代償を覚悟しなければなりません。

 たとえ、そのように扱ったとしても、問題の解決に自由意志を本質的のものとして持ち出さずに済ませればよいのです。また、「いかなる法律も行動統制の言命であり、真理とは無縁のものだ」という認識があれば、結果的に自由意志に惑わされずに済みます。自由意志を絶対視した上で成立している法律に対しても「それは行動統制の言命であり、真理ではない」と主張できます。

3.どの範囲までを環境の責任として認めるか
 環境責任論の主要テーマは「どの範囲までを環境の責任として認めるか」ということです。環境の責任にする範囲を100%とすれば本人の責任は問えず、裁かれるべき人はいなくなります。また、0%とすれば一切環境の責任にすることはできず、全ては本人の自由意志の結果ということになります。もちろん、現実の対応としては100%も0%もあり得ません。それでは、どうすればよいのでしょうか。

 どの範囲までを環境の責任として認めるかは、真理か否かの問題ではありません。実際にどのような範囲を環境の責任として認めたとしても、それは真理ではありません。どのような範囲にするかは、民主主義の社会では人々の賛同次第で決まるのです。既に決められた範囲を変更するのも人々の賛同次第です。もしも真理だから賛同すると主張する人がいるとすれば、その人はとんでもない勘違いをしています。

 例えば、裁かれる者に重大な精神障害があった場合は刑罰の対象にしないということが実際に行われています。これは、精神障害という環境に責任の全てを押し付けるということです。人々がそのことを認めているのは、それが真理だからでしょうか。そうではありません。人々の賛同次第では、いつでも、精神障害を刑罰の軽減や免除の対象としないこともできるのです。もしも、そうなったとしたら、そちらのほうが真理だったからでしょうか。そうではありません。どういうことを環境の責任にするかは真理とは無関係なのです。(→「法律に賛同してもらうには」)

注:あらゆる議論は「手がかり足がかり」として用いる概念によって制約されます。自由意志は見かけ上のものに過ぎないのですから、「自由意志」という概念を用いるのはできるだけ控え、「行動決定」という概念で済ませるようにします。この概念なら能動的自由意志でも受動的自由意志でも使えるからです。
 時枝の理論が従来の哲学で用いられてきた概念の使用を極力避けているのは同様の理由によります。

4.従来の環境責任論について
 これまで、裁きの場における環境責任論は、「自由意志と(環境)決定論」というテーマで語られることがありました。従来の視点では、自由意志を見かけ上のものではなく本質的なものと捉えますから、基本的に行動決定は自由意志によるものと考えます。しかし、その人が置かれている環境が行動決定に影響を及ぼすことがあることも認めます(環境決定論)。その結果、「行動決定のどの範囲までを環境の責任にすることができるか」ということが議論のテーマになります。

 例えば、脳に欠陥があれば「自由意志による行動決定」自体に影響が及ぶことがあることを認めます。脳の欠陥が原因で仕方なしにそのような行動決定をしてしまったのだから減刑したり、免除したりしてやろうということになります。薬物などの投与などによって一時的に「自由意志による行動決定」に影響があったと認められる場合も同じような扱いになります。

 一番問題となるのは次のような場合です。例えば、劣悪な環境の中で育った人の場合です。「そのような環境で育たなかったら、そのような行動決定をすることはなかった。劣悪な環境の中で育ったことは本人の責任ではない。だから、減刑してやるべきだ」という主張がされます。このような場合については、環境の責任として認めるか否かの段階で意見が分かれます。また、認めた場合でも、個々の事例によって意見が大きく分かれます。

 ところで、「環境の責任にすること」を「哀れんでやること」と勘違いしている人がいます。「脳に欠陥があること自体がかわいそうだから」、あるいは「劣悪な環境の中で育ったこと自体がかわいそうなことだから」減刑してやろうという発想なのです。行動決定が引き起こした事態とは無関係に、「かわいそうな境遇の人なのだから大目に見てやれ」というような主張なのです。もちろん、ここで述べている環境責任論は、そのような次元のことではありません。

 また、「たとえどんな環境にあろうと、別の選択をすることもできたはずだ。それを選択しなかったのは本人の責任だ。環境のせいにすることはできない」などという主張がされることがしばしばあります。このような主張ができるのは、「自由意志による行動決定自体が環境の影響を受けることがある」という認識の上に立っていないからです。自由意志を何ものにも制約を受けない存在だと考えているからです。あるいは単に「環境」という概念を非常に狭い範囲で捉えているからです。

 自由意志を本質的なものと考えている人達は、「自由意志による行動決定」と「環境による行動決定」との間に確固たる線を引くことができるかのように考えてしまいがちです。しかし、そのようなことは、実際には自由意志が見かけ上のものに過ぎない以上、無理なのです。行動を操るパイロットという見かけ上のものを前提にしなければならない「自由意志」というものを持ち込むからには、その代償を払わなければならないのです。

注:従来の環境責任論は、自由意志が環境によって制約を受けることを認めることが出発点になります。しかし、そのことを認めることの先で何が待ち構えているでしょうか。行き着く先にあるのは「自由意志の危機」です。科学の進歩次第では自由意志の守備範囲が次第に狭められ、いずれは自由意志の存在自体が危うくなる可能性があるのです。(参考:「(受動的)自由意志と責任」)
# by f-tokieda | 2009-07-23 14:37 | 法律の根本問題 | Comments(0)
手がかり足がかり
「言葉と真理」の『手がかり足がかり』(P.87~89)より抜粋

 結局、私達は、使用する概念を「手がかり足がかり」とする理解しか得られない。別の概念を「手がかり足がかり」として使用したら、別の理解が得られることになる。つまり、私達の得られる理解(説明)は、使用する概念の制約を受けた理解(説明)であらざるを得ない。哲学などを学ぶと、そこで使われている伝統的な既成の概念を使用させられることによって、その概念が築く世界に引きずり込まれる。そして、そこで底なし沼にはまる。

 概念を曖昧なものと認めているにもかかわらず、現在使用している概念を用いて全ての事柄の説明が可能だという誤った前提の上に立って、物事を語ろうとする。そういう姿勢は、概念を固定された不変のものと考えてしまっていることから来ている。普通の人から見たら空理空論としか思われない、哲学者のやる多くの奇妙奇天烈な問いかけは、そういった誤った姿勢から生まれているに過ぎないものなんだ。

 不確定性を排除できない以上、概念は「手がかり足がかり」にしかなり得ない。しかも、私達は使用する概念に制約された理解しか得られない。そのことをしっかりと自覚しなければならない
# by f-tokieda | 2009-07-23 09:40 | 用語の解説
なぜ故意にやったか否かで罰の重さを変えるのか
 なぜ、裁かれる人のそのとき抱いていた思いや置かれていた状況次第で、与える刑罰の重さを変えるのでしょうか。少なくとも現代の法律では、生じた事態だけで判断して人を罰したりはしません。刑罰を与える際には、裁かれる人のその時の思いや事情を考慮します。どうしてそういうことになったのでしょうか。ここでは「なぜ故意にやったか否かで罰の重さを変えるのか」ということを中心に考えます。

1.問題提起
 なぜ、故意にしでかした場合には重い刑罰を与え、故意でなかった場合には刑罰を軽くしたり免除したりするのでしょうか。そのような問いかけに対し、「どうして、そんな当たり前のことが分からないんだ」と言いたくなる人が多いことでしょう。「そのようなことを問う奴は頭が変なんだ」と言う人もいるかも知れません。しかし、実際には、人間は行動決定ブラックボックスのなすがまま行動しているに過ぎません。その観点からすると抱いて当然の疑問なのです。

 例えば、何の落ち度もない人を殺した者がいたとしても、彼は行動決定ブラックボックスのなすがままに行動したに過ぎません。彼はそれに逆らうことはできなかったのです。それなのに、なぜ罰せられなければならないのでしょうか。一歩譲って、罰せられることを認めたとしましょう。どのみち、行動決定ブラックボックスのなすがままに行動したに過ぎないのです。どうして「故意だったか否か」で与える罰の重さを変えるというようなことをするのでしょうか。どうして、その人の思いや置かれていた状況を一切考慮せずに罰を与えることにしないのでしょうか。

注:このような問いかけをすると、常識にぶら下がって生きている人達は一笑に付すに違いありません。しかし、過去の知的世界の歴史を振り返ってみて下さい。常識とはかけ離れた問いかけが、背後に潜む根本的な問題を表面化させ、その解決が知的世界に変革をもたらしてきたのです。常識を越えた問いかけを可能にする理論の存在価値を理解できる人が、世の中に果たして何人いることやら。

2.なぜ、思いや置かれていた状況を考慮に入れて罰の重さを決めるのか
 通常、人は子供の時に、思いのままに(欲望のままに)他人のものを奪ったり暴力を振るったりする行動を抑制するような行動統制を受けます。その結果、相手あるいはその周囲の者たちから反撃されるようなことを自分の「思いのままに(欲望のままに)」やるようなことは控えるようになります。また、そのようなことをしてしまった場合には責められ罰せられたとしても仕方がないと、本人も認めるようになります。つまり、「故意に相手を害した場合には罰せられる」ということを当然のこととして受け入れる下地ができあがります。しかし、まだ、故意でない場合との区別が曖昧な段階です。

 人は、自分の行動が自分の思いとは全く異なる結果を引き起こしてしまうことがあることを経験します。そのような場合と、思いの通りに(故意に)やった場合との間には、はっきりした違いがあります。その違いを誰もが認識できます。ですから、そのような場合には、思いの通りに(故意に)やった場合とは異なった罰の与え方をしてくれるよう要求できます。すなわち、「故意にやった」と「故意ではなかった」をはっきり区別した罰の与え方を要求できます。

 それでは、故意にやったのではない場合には大目に見てやるという方向に向かうのはどうしてでしょうか。まず、人の行動のほとんどは故意になされたものとして見なされ、故意ではなかったと見なされる場合は少ないということが挙げられます。また、故意にやった場合に許してやるのと違って、故意ではない場合には許してやったとしてもそのことが繰り返される可能性はあまりありません。「それが許されるのなら」と真似をする者も出ません。また、通常その行動の再発を抑制するのに重い罰を与える必要はありません。罰を与える意味のない場合さえあります。

 結局、「故意にやったのではない場合は、つまり本人の意志通りにしたことではない場合は重い罰を与えるべきではない」と主張された場合に、人々はそれに容易に賛同することになります。そこから「一般に、本人にとってはどうしようもなかったことであった場合は、刑を軽くするか免除すべきだ」という考え方に進むのはそれほど難しくはないでしょう。更にそこから、例えば、「心神喪失の状態にあったときにやったことは、本人にとってはどうしようもなかったことなのだから責任を問うべきではない」という考えに至るのは容易でしょう。

 刑罰の与え方は、最初からいきなり現在のものと同じものが成立したのではありません。次第に積み重ねられて行ったのです。細分化されたり拡大解釈されたりしながら、初期の単純なものから次第に現在の複雑な内容のものとなって行ったのです。その過程で様々な考え方が、例えば現代に見られる強い人権意識が反映されていきました。もちろん、互いが行動を操るパイロットであるという前提に立っています。

注:刑罰が細分化されていったのは、できる限り科される刑罰を軽くしてもらうために、加害者あるいは弁護人が、事情の違いを細かく主張したからです。拡大解釈についても、同様なことが言えます。

注:人は、互いを行動を操るパイロットと見なします(「行動を操るパイロットと法律」)。したがって、人の行動のほとんどは思いの通りに(故意に)なされたものとして扱われます。故意でなかったと見なされる場合は少ないのです。相手を害する結果を招いたときも、通常、相手だけでなく本人さえも、それを故意によるものと捉えます。ですから、故意でない場合でも、放っておけば、故意によるものとされてしまいます。

注:自分の思いの通りにやった行動が他の人を害する事態を引き起こし、その結果、その相手やその周囲の人達から攻撃を受けたとします。このとき、「思い」、「行動」、「生じた事態」、「自分に降りかかった事態」という一連の事柄の事象つなぎがなされます。この「思い」と「行動」との関連が「故意」として捉えられます。「故意に相手を害した」ということになります。

3.言葉との関わり
 人間が言葉を持たなかった時代のことを考えてみて下さい。子供が思いのままに(欲望のままに)他人のものを奪ったり暴力を振るったりすれば、当然、周囲の者たちから攻撃を受けます。言葉によらなくても、肉体的に攻撃を受けることで、そのような行動をとることを抑制するようになります。つまり、相手を害するような行動を「故意で」やるようなことは控えるようになります。

 その延長として、場合によっては、言葉では表現できなくても、「故意でなかったから許す」ということがあったかも知れません。思いとは全く別の結果を招いてしまうことがあるということを自分で経験することがあったでしょうから、自分の身に置き換えて考える能力があれば、そのようなことがあり得なくはありません。

 しかし、当然、言葉を獲得した後でなければ、「故意でなかったのだから許してくれ」という弁解はできません。「故意でなかったのだから許すべきだ」という助け船も出してもらえません。周囲の誰からも認められる弁解という意味で「故意ではなかった」が通用するためには、言葉の存在がどうしても必要です。「本人にはどうしようもなかったことなのだから刑罰を軽くするべきだ」という主張も、人が言葉を獲得したからこそできたことです。言葉の獲得が人間の刑罰のあり方に与えている影響は非常に大きいのです。

 しかしながら、言葉を導入したということは、同時に、大きな問題を抱え込んだということをも意味します。人が用いている言葉は、互いが行動を操るパイロットであるという前提の下で成立しています。しかし実際は、そのような前提は見かけ上のことに過ぎません。見かけ上のことを正しいことと見なしたことに対する代償を払わねばなりません。まさに、現在、私達が人を裁く際に直面する困難がその代償なのです(→「行動を操るパイロットと法律」)。

4.真理との関連
 「『故意にやったのでない場合は刑を減ずる』ということには、そうすべき必然性があったことになる。だから、それは正しいこと(真理)なんだ」などと主張したくなる人が出てくるかも知れません。そこで、そのことについて述べておきます。

 そうでないことを選択できるからこそ、「故意にやったのでない場合は刑を減ずるべきだ」と敢えて主張しなければならないのです。「これまでこれを選んできたのだから、これが真理なのだ」という理屈はおかしくはありませんか。人間が選んだことが真理になるという理屈を受け入れられますか。特定の行動統制の言命に沿ったことが現在行われているからといって、そのようにするべきだという行動統制の言命が真理であるということには決してなりません。あくまでも行動統制の言命は真理とは無縁のものなのです。

 もしも、被害者の人権を最優先に考え、「故意であろうがなかろうが刑の重さを変えるべきではない」ということに多くの人が賛同すれば、それが法律として成立するのです。しかし、成立したとしても、決してそれが真理であるからではありません。

注:「故意にやった」を、ここでは「思いの通りにやった」と捉えています。細かく言うと、「故意にやった」というのは、思いと生じた結果とが一致している場合です。生じた事態を予測する思いが前もってあった場合です。しかし、実際の場面での「故意か否か」の判定は容易ではありません。本人でさえ自分の思いがよく分からないということがあるのですから当然です(→「行動の説明1(行動の理由とは何か)」)。そもそも、実際には行動決定ブラックボックスがやったことなのに、無理やり、見かけ上のものに過ぎない行動を操るパイロットがやったこととして判定するのですから簡単なはずがありません。「殺意」の有無の判定が難しいのも当たり前なのです。
# by f-tokieda | 2009-07-19 09:37 | 法律の根本問題 | Comments(0)
行動を操るパイロットと法律
 人間は行動決定ブラックボックスのなすがままに行動させられています。行動を操るパイロットとしての人間は見かけ上のものに過ぎません。それにもかかわらず、行動を操るパイロットとして刑罰を受けるのです。つまり、見かけ上正しいことをもとにして罰せられてしまうということです。どうして、そのようなことになるのでしょうか。なぜ、人はそのようなことを受け入れているのでしょうか。そのことについて、色々な角度から考えてみましょう。

1.互いを行動を操るパイロットと見なすことをやめることができるか
 見かけ上正しいことを前提にして裁かれたくはないと思うのは当然です。しかし、それを拒否したければ、全ての人間に互いを行動を操るパイロットと見なすことをやめさせなければなりません。そのためには、人を行動を操るパイロットと見なすことで成立していた法律をはじめとするこれまでの文化的資産を全て捨て、人間が言葉を持たなかった原始の時代に逆戻りさせなければなりません。そうすれば、少なくとも野生動物の社会の段階にまではすることができるでしょう。

 しかし、万が一それができたとしても、再び人間は言葉を持つようになり、日常生活において互いを行動を操るパイロットとして扱うことになるのです。結局、再び現在と同じように、互いを行動を操るパイロットとして扱う文化的資産を蓄積し育てていくことになります。互いを行動を操るパイロットと見なすことをやめることなどできはしないのです。人間は誰もが社会生活をする中で行動を操るパイロットとして育てられてしまうのです。それは避けられないことなのです。

2.人間社会の行動統制の形態
 人間は、見かけ上のものに過ぎないとは言え、互いを行動を操るパイロットと見なして行動を統制し合っています。互いを行動を操るパイロットと見なし、行動の結果生じた事態について責任を取らせています。それが人間社会が背負わされた行動統制の形態なのです。互いを行動を操るパイロットと見なすことからは逃れられないのです。そうである以上、法律を必要不可欠のものと認めるなら、人間社会は、互いを行動を操るパイロットと見なした刑罰の方法を受け入れるしかありません。

 社会生活を営むあらゆる生物種は、自分たちが獲得している能力に応じて互いに行動を統制し合います。どのように行動を統制し合うかは、その種に備わった能力によって異なります。言葉を使えない種はそれなりの、言葉を使える種はそれなりの、それに加えて更に文字を使える種はそれなりの行動統制の形態を取ることになります。人類のように、認識装置の機能によって行動を操るパイロットとしてお互いを捉えてしまう種は、それなりの行動統制の形態を取ることになります。当然、人類の行動統制の形態は人類に固有のものです。

3.人を行動を操るパイロットと見なさなかったら
 見方を変えてみましょう。もしも、人を行動を操るパイロットと見なさなかったら、どういうことになるでしょうか。人が行動を操るパイロットでなかったら、行動の責任を問うことができるでしょうか。それは無理です。人が行動を操るパイロットであるからこそ、責任を問うことができ、法律が成り立つのです。人の行動の責任を問題にしたいけれども人を行動を操るパイロットと見なしたくはないなどということは無理な注文なのです。

 人が行動を操るパイロットと見なされない社会を想像してみて下さい。行動に先行する思いがどうのこうのという前に、人を殺したとしても責任を取る必要が生じないと思いませんか。そのことについて誰か責任を問う人がいるでしょうか。野生動物の世界を思い浮かべると少し理解できるかも知れません。人を行動を操るパイロットと見なすということと、行動の責任を問うということとは切り離せないことなのです。行動の責任を問題にするなら、人を行動を操るパイロットと見なすということが前提になるということです。

4.見かけ上のことを正しいことと見なすことから生じる無理
 結局、法律を必要なものと認めるなら、法律のない社会に恐怖を抱くなら、見かけ上のものに過ぎないとは言え、行動を操るパイロットとして人を扱わざるを得ないのです。しかし、そのことが、つまり見かけ上のことを正しいことと見なしたことが、法律を定めたり運用したりする際に大きな困難をもたらしていることを認識しなければなりません。人を裁く際に直面する困難の原因がそこにあることを自覚しなければなりません。

 行動を操るパイロットが見かけ上のものに過ぎないにもかかわらず、それを正しいこととして議論を押し進めれば、当然、無理が出てきます。人を裁く際に混乱が生じるのも、法律を理論化しようとして行き詰まるのも、当たり前のことなのです。厳密な議論をしようと思うなら、形式上は行動を操るパイロットとして扱ったとしても、その背後では行動を操るパイロットが見かけ上のものに過ぎないことを前提に据えている必要があります。

5.刑罰のあり方と真理
 見かけ上正しいことをもとにした刑罰が真理であり得ようはずがありません。しかし、所詮、どのような刑罰も行動統制の言命であり、真理ではありません。どのようなことをもとにして刑罰を定めたとしても、それは真理にはなりません。真理をもとに刑罰を与えたいと望むなら、刑罰を与えることを諦めなければなりません。法律を捨てなければなりません。社会秩序の維持を諦めねばなりません。

 如何なる法律も、行動決定ブラックボックスのなすがまま行動しているに過ぎない人間を、無理やり行動を操るパイロットと見なすことで成立している以上、真理ではあり得ません。しかし、この点に関しては、「如何なる法律も行動統制の言命であり、真理とは無縁のものだ」ということで対処できます。そもそも行動統制の言命は、互いが行動を操るパイロットであるという前提で発せられる言命なのです。

6.まとめ
 行動を操るパイロットは見かけ上のものに過ぎません。しかし、人間社会は互いを行動を操るパイロットと見なして行動を統制し合っています。人間は互いを行動を操るパイロットと見なすことをやめることはできません。
 互いを行動を操るパイロットと見なすことで法律は成立しています。法律を必要不可欠なものと認めるなら、行動を操るパイロットとして罰せられることを受け入れざるを得ません。ただし、見かけ上のことを正しいこととして扱うからには、その代償を覚悟しなければなりません。

 問題なのは、そのようにして受け入れられている法律を、多くの人が真理であるかのように勘違いすることです。所詮、行動を操るパイロットは見かけ上のものに過ぎません。そのようなものを前提として成立している法律に真理であることを期待してはいけません。いずれにせよ、個々の法律は全て行動統制の言命であり真理とは無縁のものです。
# by f-tokieda | 2009-07-12 14:49 | 法律の根本問題 | Comments(0)
現在、取り組んでいるテーマ(2009.7.4)
現在、次にようなテーマに取り組んでいます。
「例えば、人を殺したとしても、その人は行動決定ブラックボックスのなすがままに行動したに過ぎません。それなのに、どうして罰せられなければならないのでしょうか。また、どうして、その人がそのとき抱いていた思いや置かれていた状況を考慮して刑罰の重さを決めるようなことになったのでしょうか。どうして、引き起こした事態だけで判断して罰しないのでしょうか」
 おかしなことを考えていると思う人多いかと思います。頭が変になったのではないかと思う人さえいるかもしれません。しかし、受動的自由意志の視点からすれば当然の疑問なのです。

 このような問いかけを鼻で笑う人達がいることでしょう。しかし、過去の知的世界の歴史を振り返ってみて下さい。常識とはかけ離れた問いかけが、背後に潜む根本的な問題を表面化させ、その解決が知的世界に変革をもたらしてきたのです。
# by f-tokieda | 2009-07-04 21:09 | 現在の取り組み
[行動の説明]の記事目次
1.行動の説明1(行動の理由とは何か) (2007.9.24)
2.心の奥底の思い(2007.9.28)

注:今のところ実際の記事順と合っていません。
























# by f-tokieda | 2008-12-28 10:47 | 行動の説明
[意味論]の記事目次
1.意味論
2.言葉が指し示すもの
3.概念と具体的な弁別対象
4.概念の不確定性と外部確定性
5.単語と意味
6.使用概念域(実践的意味論) (2007.4.10)

注:6.は記事順を整理していません。(2007.4.10)
注:頭から読み進められるように、記事内容にしたがって記事順を整理し直しました(1~5)。(2006.6.16)
# by f-tokieda | 2008-06-16 09:13 | 意 味 論 | Comments(0)
[論理について]の記事目次
1.論理における言命の適用範囲の問題 (2007.6.5)
2.補説(論理的正しさと例外の容認) (2007.6.15)
3.真理を導くことを前提としない論理 (2007.6.7)
4.行動形成のための論理 (2007.6.14)
5.行動統制の言命と論理 (2007.6.15)
6.時枝のナイフ (2007.12.29)

参考:「決定論の世界における責任の問題」の「3.おまけ(同じ論理で反論して言い訳を封じる)」

注:1.から順に読まないと理解できません。今のところ実際の記事順と合っていません。
# by f-tokieda | 2008-06-07 10:04 | 論理について
補説(物理学的決定論と神の自由意志)
 なぜ、物理学的決定論が真剣に議論されるのか分からないという人がいるので、そのことについて別の角度から述べておきます。

 世界には神の存在を疑わない人たちがたくさんいます。日本とは事情が異なり、一国の指導者が国民に対して神が存在することを前提とした発言をしたとしても、それが許される国が数多くあります。それほど神の存在が生活に根付いているということです。物理学決定論は、その神の存在を危うくします。自分たちが生きていく規範としている宗教の根底が否定されてしまうのです。そのため、彼等にとっては大問題となります。

「完全なる決定論において問題となるのは、人間の行動よりは、むしろ神の行動なんだ。完全なる決定論は神の介入を許さない。神の奇跡を許さない。神とて完全なる決定論の掌中にあり、神には勝手に未来を書き換えることはできない。神が存在したとしても、神が何をするかも決められている。神には自由はない」(「言葉と真理」p.219)

 物理学的決定論の世界では、私達は決定論のなすがままです。私達の未来は既に全て決定されています。たとえ神が存在したとしても、その決定されている未来を少しも変えることはできません。神は私達に何の影響も及ぼすことができないのです。存在しないのと同じです。物理学的決定論の受け入れは、神の否定につながる大問題なのです。神の存在を信じる者にとって、どれだけ重要なことなのか、分かっていただけたでしょうか。

注:詳しくは、「言葉と真理」の「第十章 運命 … 決定論と行動」を参照して下さい。
 また、「神」については、「第十一章 宗教」を参照して下さい。

追記:話は少しそれますが、大切なことなので述べておきます。
 物理学的決定論は神の存在を否定することに繋がっています。したがって、神の存在を強く信じる科学者は、どうしても物理学的決定論を否定する方向に持って行こうとします。その結果、当然、彼等の構築する理論は物理学的決定論を否定するようなものになります。私達はそのことを念頭に置いて、冷静に彼等の主張や理論の正当性を判断しなければなりません。たとえ神の存在を信じていたとしても、科学者であるなら、神を救済しようとして真理の探究の矛先を鈍らせるようなことがあってはなりません。

 ところで、宗教に縛られ、自然科学的な考え方を無視したり強引にねじ曲げようとする人たちが出てきます。その典型的な例として進化論が挙げられます。未だに教典に書かれている通り「人間は神によって創造された」と信じ、進化論を拒絶している人たちがたいへん多くいるということを御存じでしょうか。もしも物理学的決定論が神と対立すると聞いただけで、すぐに拒否するようであれば、あなたは彼等と全く変わりません。真理の探究をする者が宗教に振り回されてはなりません。
# by f-tokieda | 2008-04-09 22:20 | 心身問題・自由意志 | Comments(0)
決定論の世界における責任の問題
 実行した後であれば、その実行したことを決定されていた未来だと主張することができます。彼を殺した後で、「これが決定されていた未来だ」と主張できます。

1.決定論を言い訳にして責任を回避できるか
 何かしでかした後で、「これが決定されていた未来だったんだ。私にはどうしようもなかった」と主張すれば、責任を取らされずに済むでしょうか。例えば、人を殺した後で「これは決定されていた未来だったんだ。私にはどうしようもなかった」と主張すれば、罰を受けずに済むでしょうか。

 このような言い訳は、責任回避という観点からすると、「行動決定ブラックボックスのやったことだ。私にはどうしようもなかった」という言い訳と同じ性格のものです。たとえ、社会全体が「人は行動決定ブラックボックスのなすがままに行動させられているに過ぎない」ということを認めたとしても、社会は混乱を回避するために、その事態を引き起こした者に責任を負わせ続けざるを得ません(参照: 「(受動的)自由意志と責任」 2.「行動決定ブラックボックスのなすがまま」と責任)。

 この世界が決定論の世界であることが判明したとしても、同じことが言えます。決定論の世界では、人は決定論のなすがままに行動するに過ぎません。しかしながら、社会は混乱を回避するために、やはり、その事態を引き起こした者にその責任を負わせることになります。罰を与えるか否かは、社会の要請によるのです。決定論の世界であるか否かということとは無関係です。決定論を言い訳にして責任を回避できると思ったら大間違いです。

 このようなことを言うと、「決定論優先の原則に従えば、社会が決定論を言い訳にした責任回避を認めないことが決定されていなければ、実際にそういうことにはならない。そうなる保障はどこにあるんだ」と主張する者が出てくるかもしれません。確かに、実行前のことについてですから、そういうことが言えるでしょう。しかし、勘違いしないで下さい。ここで語っているのは物理学的決定論です。単なる決定論ではありません。物理学的決定論がどのような性格のものであるかを考えれば理解できることです。

 未来が既に決定されているとは言っても、行動決定ブラックボックスはデタラメに思いや行動を出力するわけではありません。そこを勘違いしてはいけません。物理学的決定論の世界では、例えば、いきなり地球が太陽の周りを逆回転し始めたりはしません。物理学的法則に則って運動するわけです。人の行動も同じです。人は、何の脈絡もなく、いきなり殺し合ったりはしません。行動決定ブラックボックスは、それなりの法則に則って行動を選択するわけです。例えば、その個体に特殊な要因が働かない限り、行動決定ブラックボックスは自らの生存を危うくするような行動決定はしません。

 決定論の世界であることが判明した後でも、行動を操るパイロットとしての私は、選択次第で未来は異なったものとなるという前提の下で行動を選択しなければなりません。行動決定ブラックボックスにより、そうさせられます。その際、通常、行動決定ブラックボックスは自らの生存を危うくするような行動の選択はしません。そのような選択をすることがあるとすれば、特殊な状況に置かれた個体に限定されます。社会全体の総意としては、社会の大混乱を招くような行動を容認するようなことはありません。

 結局、決定論の世界においても、社会は、人々に対し、これまでと全く変わることなく自分の行動に責任を取らせることで、社会生活の混乱を回避し、円滑な営みを実現することになります。

2.時枝のナイフで切断する
 実行後の主張であれば、「彼を殺すことが決定されていた未来だった」という言命は正しいのです。しかし、その正しいか否かを問える言命と「罰するべきではない」という行動統制の言命とを結びつけようとすることに問題があります。

 既に述べましたように、真理か否かを問うことのできる言命から行動統制の言命を直接導き出すことはできません。「彼を殺すことが決定されていた未来だった」という言命から、「罰するべきだ」とか「罰するべきではない」という言命を導き出すことはできません。両者を切り離さなくてはなりません(時枝のナイフ)。

 罰するべきかどうかは、その人が属する生活集団の中で決まることです。「罰するべきだ」とするのは、社会の混乱を回避するためです。「社会の混乱を回避するため」という行動統制の目的を設定したときに、「罰するべきだ」という言命が正しいと言えるのです。

注:結局、実際には行動決定ブラックボックスのなすがままであったとしても、未来が既に決定されていたとしても、社会生活を円滑に営むためには、結局は「行動を操るパイロットとしての私」に行動の責任を負わせるという形に自然に落ち着くのです。

3.おまけ(同じ論理で反論して言い訳を封じる)
 ある人を殺した後で、「これが決定されていた未来だったんだ。私にはどうしようもなかった」と言い訳をする人が出てくることでしょう。それに対して、突きつけられた論理と同じ論理で反論することで、その言い訳を封じることができます。

 誰かが「私がその人を殺したのは既に決定されていたことだ。決定論に逆らうことはできなかった」という言い訳したとしましょう。それに対して、「私達はあなたを死刑にした後で、『これは既に決定されていたことだ。決定論に逆らうことはできなかった』と言い訳することにしましょう」と言ってやることができます。決定論を言い訳にしてきたら、決定論で対抗することで相手を黙らせることができます。

 結局、決定論による言い訳など通用しないのです。決定論の世界であることが判明したからと言って、その人の行動が引き起こした事態に対する社会的な責任の取り方を変える必要は全くありません。もちろん、法律のありかたも変える必要はありません。あえて「決定論による言い訳を認めない」と法律に明記してもよいでしょう。そのことも決定されていたことだと主張できます。

 ところで、皆さんは、このような解決方法をどう思いますか。この場合に限らず、論理を用いた反論というのは、反論すべき論理と同じ前提に立たざるを得ません。したがって、反論するのに成功したとしても、それは前提となる事柄の欠陥を解消した上のことではありません。その前提とされている事柄を無効にするような新たなる理論を導入した上でのことでもありません。いずれにしろ、(表面には出てこない)前提となる事柄の欠陥を抱えたままなのです。
 そのためか、この場合に限らず、論理による解決には常に何か後味の悪さを覚えます。表面的な解決に終わらせたことに対する口惜しさと、根本的な解決を見送ったことに対する後ろめたさを感じます。
# by f-tokieda | 2008-04-04 10:13 | 心身問題・自由意志 | Comments(0)
決定論の世界における自由意志の問題
 ここで述べるのは、行動の実行前に決定論が持ち出された場合です。実行後に決定論が持ち出された場合については、別のテーマ「決定論の世界における責任の問題」で述べます。

注:時枝の理論に初めて触れる人へ。この論文は既に掲載した論文とのつながりを前提にして書いてあります。[心身問題・自由意志]の記事目次を参照して下さい。

1.自由意志による行動を決定論のせいにできるか
(1)決定論が自由意志を従える
 私達が日常捉えている自由意志は、「自分の選択次第で未来を異なったものになる」という前提で行使される自由意志です。そのような自由意志が「既に未来は決定されている」ということと両立しないことが指摘されたとしても、何らおかしなことではありません。例えば、「彼を殺すことが決定されている未来になっている」ということと、「自由意志で彼を殺さないことができる」ということとは両立しません。同時に成立させることはできないのです。これは、決定論と自由意志を対等に扱った場合です。

 決定論の世界では、自由意志で行動したことが「決定されていた未来だった」ということになります。能動的自由意志の視点からは、すなわち「行動を操るパイロットとしての私」からすれば、いつでも思いを行動に直結できるという前提に立つので、実行前に、「これから実行することで、そのことを決定されている未来にすることができる」と捉えることになります。ですから、「今、彼を殺してやる。それが既に決定されていた未来となる。決定されていたことだから誰にもどうしようもないことなんだ」などという理屈が通用してしまいます。

 このような考え方においては、決定論は自由意志にくっついてくるだけのものです。すなわち、自由意志が決定論を従えているということです。しかし、それは、見かけ上のものに過ぎない能動的自由意志の視点からのものです。より厳密な知識としての受動的自由意志の視点からは、自由意志の方が決定論に従います。決定論の方が優先されるのです(決定論優先の原則)。自由意志は決定論のなすがままです。つまり、彼を殺すことが決定されていた未来になっていなければ、彼を殺すことはできません。そのことが優先されるのです。

 確かに、彼を殺したとすればそれが決定されていた未来になります。しかし、実行前であれば、彼を殺すことを実行できる保障はありません。彼を殺すことが決定されていなければ実行はできないのです。それでは、彼を殺すことを決定されていた未来にすることができるなどとは言えません。結局、まだ実行されていない行動を、これから自分が行おうとしている行動を、「決定されていたことだから、どうしようもない」などと、決定論のせいにすることはできないのです。どうしても決定論のせいにしたければ、そのことが過去のことになってからです(自由意志の事後確定性)。

注:決定論の世界における自由意志についての論議が混迷するのは、能動的自由意志を決定論よりも優先させたり、決定論と対等に扱ったりするからです。そのような扱いを許さなければ、その混迷から抜け出す一歩を踏み出せます。実際のところ、自由意志を決定論よりも優先させたり、対等に扱ったりすることを否定できないがために、往々にして、互いに矛盾するような論議を両方とも受け入れざるを得ないような事態に陥ってしまっていることがあります。

注:能動的自由意志が決定論と共存できるのは、それが実際には見かけ上のものに過ぎず、その背後に決定論と矛盾しない受動的自由意志があるからです。見かけ上のものに過ぎない以上、それを正しいこととして前提に据えて語れば、そこに無理が生じるのは当然です。

注:「決定論の世界では、自由意志で行動したことが決定されていた未来になる。しかし、実行前であれば、自由意志で未来を決定することができることにはならない」ということは既に述べました(「自由意志は未来を決定するか」)。

(2)時枝のナイフで切断する
 実行前において自由意志による行動を決定論のせいにしようとする試みは全て失敗に終わります。そのことについて、別の視点から述べておきます。時枝の理論が提供する道具を使います。

 忘れてはいけません。「真理か否かを問うことのできる言命」から直接、行動統制の言命を導き出すことはできません(時枝のナイフ)。「未来は既に決定されている」という「真理か否かを問うことのできる言命」から直接、「自殺してもよい」とか「人を殺さなければならない」というような行動統制の言命を導き出すことはできないのです。こういった論理を見かけたら、その二つの言命を時枝のナイフで切断してやらなければなりません。

 例えば、全ての人にとって、「これから先、飲まず食わずでいたとしたら、それが決定されている未来になる」ということは正しい言命です。しかし、だからといって、その言命から直接、「飲まず食わずでいなければならない」という言命を導き出すことはできません。お分かりでしょうか。飲まず食わずでいることを決定論のせいにはできないのです。それと全く同様なことが、「自殺する」とか「人を殺す」ということについても言えます。


2.参考(決定論の世界における行動決定の論議)
 一般の人々は、能動的自由意志を絶対的なものとして受け入れ生活しています。能動的自由意志が見かけ上のものに過ぎないなどということは理解できないのが普通です。ですから、これまで私が述べてきたことだけでは容易には納得できないでしょう。やはり、決定論の世界における自由意志について、頭を悩まし続けるに違いありません。

 そこで、参考までに、この問題に関する具体的な論議を取り上げておくことにします。ここでは、行動決定ブラックボックスとか、能動的自由意志とか、受動的自由意志などという言葉は用いません。そういう知識を前提としないで述べます。その中には、決定論よりも自由意志を優先させたものも入れてあります。「1.自由意志による行動を決定論のせいにできるか」を読んでいれば、なるほどと思えることが多いはずです。

(1)行動決定を決定論のせいにする
 (A)「私が自殺したとしても、それは決定されている未来だ」と言い放って、自殺しようとする人がいるかもしれません。その人に対してかける言葉です。

 ①それが決定されている未来になっていなければ、実行はできません。もしかすると、そのように言い放って何度も自殺未遂を繰り返すことに未来が決定されているのかも知れません。そうだとすると、大変お気の毒です。

 ②自殺しなかったとしたら、そちらのほうが決定される未来だということになります。どうして、自殺するほうを決定されている未来だと決めつけたのでしょうか。それにまともに答えられないのであれば、決定論を持ち出すべきではありません。

 ③そのことは誰にとっても正しいことです。しかし、誰もがそのことを自殺の実行につなげるわけではありません。ということは、あなたが実際に実行したとすれば、決定論とは関係のない、自殺につながる、あなただけに特別な事情をあなたが抱えていたからということにほかなりません。決定論のせいにすべきではありません。
 もしも実行できたとすれば、お気の毒なことに、「自殺したとしても、それは決定された未来だ」と言い放って自殺することが、選りに選ってあなたの決定されていた未来だったということになります。

 (B)「今、彼を殺したとすれば、それが決定されていた未来ということになるんだ。それはこの世界が生じたときから既に決定されていたことであり、どうしようもないことなんだ」と言い放って、彼を殺そうとする人がいるかもしれません。その人に対する忠告です。

 ①彼を殺すことが決定されていなければ、彼を殺すことはできません。もしかすると、あなたはは殺人未遂で投獄されることが決定されているのかも知れません。
 また、彼を殺さなかったとすれば、そちらのほうが決定されていた未来ということになります。あなたが殺すほうを決定されていた未来としたがるのは、決定論とは無関係に、それなりの事情をあなたが抱えているからです。結局、あなたは決定論に責任を転嫁しようとしているだけです。

 ②あなたが、宝くじの3億円の当たり券を持っていたとします。あなたなら、「今、この当たり券を破り捨てたとすれば、それが決定されていた未来ということになるんだ。それはこの世界が生じたときから既に決定されていたことであり、どうしようもないことなんだ」と言って、実際に破り捨てますか。そして、「破り捨てたのは、自分のせいではなく決定論のせいだ」と主張しますか。あなた、あなたの自由意志で破り捨てないこともできるのですよ。

 ③決定論の世界であることが判明した途端に、自由意志による行動が成立しなくなるわけではありません。決定論の世界であっても、これまで通り自由意志で行動するのです。自由意志で行動した結果が決定されていたことだったということになるのです。あなたが彼を殺すことが決定されているとすれば、あなたは自由意志で彼を殺すことになります。しかし、当然、あなたが彼を殺そうと試みなければ、永久にあなたが彼を殺すことはありません。自由意志で彼を殺さないことができるのです。ですから、彼を殺すことを決定論のせいになどできません。

 (C)「未来が既に決定されているなら、やりたい放題好きなようにやってやる。そのようにしたとしても、それが決定されていた未来ということになるんだ」そのように思う人が出てくることでしょう。

 ①しかし、未来は既に決定されているのです。やりたい放題やることが決定されている未来になっていなければ、そうすることはできません。これまで通り周囲に気を配って生きることが決定されている未来になっているかも知れません。それは過去のことになってみなければ分からないことです。実際にやりたい放題することができた後でなら、その行動の言い訳として決定論を持ち出すことができるでしょう。しかし、実行前においては、その行動の言い訳として決定論を持ち出すことはできません。

 ②そもそも、「やりたい放題やる」という行為を選択できるという前提に立っています。選択次第で未来は変わるということを認めた上での発言ということになります。これまで通りやれば、それが決定されていた未来になることを認めた上での発言なのです。あなたが認めているように、決定論の世界においても、選択次第で未来は変わるのです。やりたい放題やった場合と、そうでない場合とでは、未来は変わったものとなるのです。そうでなかったら、世の中がおかしなことになるでしょう。結局、「やりたい放題やる」かどうかは、あなたの選択次第なのです。決定論のせいにはできません。

(2)決定論の世界では努力をすることは無駄か
 次は、「全てが決定されているのだから、あらゆる努力は無駄だ。どんな努力をしても結果は変わらない」という主張に対する反論です。

①既に未来は決定されています。努力するかしないかも既に決定されています。そのような言葉を発しても、既に決定されていることを変えることはできません。したがって、そのような言葉を発すること自体が無駄です。

②あなたは、努力をするかしないかを選択できるという前提で語っています。つまり、「選択次第で、努力するかしないか、未来をどちらにでもできる」ということを認めた上での発言ということになります。そうでなかったら、そのように発言する意味がありません。しかし、選択次第で未来が異なったものになるというのは、あなたの主張と矛盾することになるのではないでしょうか。努力するかしないかの選択次第で未来が異なったものになるということを認めなければならなくなるでしょう。

③決定論の世界であることが判明した途端に、「行動の選択次第で未来は異なったものになる」という状況が変わるわけではありません。なぜなら、これまで決定論の世界であるにもかかわらず、行動の選択次第で未来は異なったものとなったのですから。当然、決定論の世界においても、努力するか否かの違いで未来は変わったものとなるのです。
 ちなみに、選択の仕方を変えても未来が異なったものとはならない状況を想像してみて下さい。想像できますか。もしも想像できたとすれば、そこにはきっと恐ろしい情景が展開していることでしょう。

(3)決定されている未来を知ることはできない
 最後に、参考までに、自由意志と決定論の両立ということとは離れたことですが、よくなされる主張とその問題点について述べておきます。

 「決定されている未来を知ることができるのなら話は別だが、それができないのだから、決定論の世界であることは行動の選択には全く影響しない。だから、決定論など考慮する必要はない」と主張されることがあります。

 しかし、それなら、決定されている未来を知ることができたとしたら、行動の選択に影響がでるのでしょうか。既に未来は決定されているのです。人が何を思い、どう行動するかは、全て決定されているのです。その決定されている未来を、髪の毛一本の動きに至るまで、少しも変えることはできません。決定されている未来を知ることができたとしても、どうしようもないのです。行動の選択に影響を及ぼすことなどできはしません。さあ、そうなると、上述の主張はどういうことになるでしょうか。

注:「決定論の世界であったとしても、決定されている未来を知ることができないのだから、どうしようもない。また、知ることができたところで、決定されている未来を変えることはできない。結局、決定論の世界であったとしても、これまで通りやっていくしかない」
 このような説明はどうでしょうか。確かにそうかも知れないと納得してしまう人がいるかもしれません。しかし、この問題に深く取り組んできた人は、この説明だけでは納得できないでしょう。

注:私達が日常と捉えている自由意志は、実際には見かけ上のものに過ぎません。そうである以上、それと物理学的決定論とを両立させて語ろうとすることに、もともと無理があります。
# by f-tokieda | 2008-04-01 11:01 | 心身問題・自由意志 | Comments(0)
自由意志は未来を決定するか
 例えば、「右手を挙げる」と宣言した後で実際に右手を挙げたとしましょう。それは、自分の未来を予言したということになるのでしょうか。あるいは、前もって自分の未来を決定したということになるのでしょうか。
 ここでは、より厳密な知識としての受動的自由意志の視点から、見かけ上のものに過ぎない能動的自由意志に加えるべき制約について考えます。決定論を取り上げるのは、その制約をできるだけ明確にするためです。

1.思いを行動に直結できるか (これは決定論とは無関係です)
 能動的自由意志の視点に立つと、いつでも自分の思いを行動に直結できるという前提で物事を考えます。そのため、実行前において、「やろうと思えばいつでもできる」という前提で自分の行動について語ることになります。「私」は行動を操るパイロットですから、実行前においても、これからする行動を自由意志によるものとして宣言できるわけです。例えば、「今、私は自由意志で右手を挙げる」とか、「今、私は自由意志で彼を殺す」と宣言できます。前者の場合は容易に実行できるでしょうが、後者の場合はそうはいきません。

 能動的自由意志は見かけ上のものに過ぎません。実際には、人は行動決定ブラックボックスのなすがまま行動させられているのです。ですから、そのように宣言したとしても、現実にそれが実行されるかどうかは行動決定ブラックボックス次第であり、どうなるかはその時点では本人にも分かりません。
 実際、思いの通りに実行できない場合など、数多くあります。例えば、かなりの努力を要する場合、恥をかくかも知れない場合、他の人から非難を浴びるような場合などです。誰にも経験があるでしょう。そればかりか、場合によっては、思いとは全く逆のことをしてしまうことさえあります。いつでも自分の思いを行動に直結できるわけではないのです。

 受動的自由意志の視点からすれば、厳密に言えば、その宣言と合致する行動が実際に出力されたときに初めて、「自由意志による行動」であることを主張できます。すなわち、過去のことにならなければ、「自由意志による行動」であることを主張できないのです(自由意志の事後確定性)。実行前になされる「自由意志による行動」の実行の宣言は、実行される保障のないものです。「行動決定ブラックボックスが実行させてくれたとすれば」という仮定の下での話でしかありません。

 思いや宣言を、いつでも行動に直結させられるわけではありません。したがって、常に自分の行動を予言できるということにはなりません。常に前もって自分の未来を決定できるということにはなりません。そもそも、思った通りに、あるいは宣言通りに行動できたとは言っても、実際は行動決定ブラックボックスによって、思いや宣言の後にそれと合致する行動が出力された場合に過ぎません。そのようなことを「予言した」とか「未来を決定した」と呼ぶこと自体に問題があります。異議を唱えられても仕方がありません。

注:実際に実行できなかった場合には、能動的自由意志の立場からはどのように説明するでしょうか。例えば、「途中で気が変わった」などと説明することになります。自由意志で取りやめたことにするのです。全ての行動を自由意志に基づくものとするためには大変都合のいい言い訳と言えます。

注:能動的自由意志の視点からは、「自分の思いを実行に移す」と捉えます。つまり、思いを前面に出します。「思いあっての行動」ということです。しかし、受動的自由意志の視点からは、「行動決定ブラックボックスが特定の行動を出力する状況になったときに、それと合致する思いを前もって出力する」という場合が多いものと考えられます。そうであれば、ある行動の前にそれと合致する思いが伴うことが多くなるのは当然ということになります。ですから、人が、いつでも自分の思いの通りに行動を実行できるかのように錯覚してしまうのは仕方のないことと言えます。

2.自由意志による行動と決定されてる未来
 もしも、決定論の世界であることが判明したとすると、どんなことが起こるでしょうか。能動的自由意志の視点からすれば、いつでも思いを行動に直結できるという前提に立つので、「今、彼を殺してやる。それが既に決定されていた未来となる。誰にもどうしようもないことなんだ」などと宣言する人が出てきてもおかしくはありません。誰もがそのような理屈を振りかざして殺人を試みようとしたら大変なことになります。

 しかし、そのような心配は無用です。なぜなら、能動的自由意志は見かけ上のものに過ぎないからです。そのように宣言したとしても、現実にそれが実行されるかどうかは、行動決定ブラックボックス次第だからです。行動決定ブラックボックスがそれを実行させてくれなければ、彼を殺すことを決定されていた未来にすることはできません。しかも、決定論の世界では、そのような宣言を発したとしても、それを実行することが決定されていなければ、実際に実行することはできません。

 実際には、私達は行動決定ブラックボックスのなすがままに思い、なすがままに行動しています。もしも決定論の世界であれば、その出力される思いや行動は全て既に決定されています。自由意志で思いの通りに行動したと私達には思えたとしても、実際には決定論のなすがまま行動したに過ぎないのです。私達の自由意志は、決定論の掌中にあるのです。そうであるなら、自由意志と決定論について論じる場合、自由意志よりも決定論の方が優先されなければなりません(決定論優先の原則)。

 決定論の世界においては、自由意志に基づいてなされた行動は全て決定されていたことになります。ただし、それは実行された後で言えることなのです(自由意志の事後確定性)。実行された後で初めて、自由意志による行動だったということが確定するのです。実行前においては「自由意志による行動」となるかどうかは未確定なのです。ですから、実行前に特定の行動を決定されているものとすることはできません。しかも、どう行動するかは既に決定されているのです。実行すると宣言した行動が決定されているものと一致する保障はありません。

 もしも、宣言通りに実行されるとすれば、その時点に至るまでに、行動決定ブラックボックスの内部状態がそのような行動を出力するような状況になっていなければなりません。決定論の世界であるか否かにかかわらず、そのような背景なしに、いきなり実行されるようなことはありません。もしも決定論の世界であれば、行動決定ブラックボックスの内部状態がそのような行動を出力するような状況になっていることが決定されていなければなりません。

 分かりやすく言うと、宣言通りに実行する人がいるとすれば、その人は決定論を持ち出す以前に、既にそのような状況に追い込まれているのです。例えば、彼に対して並々ならぬ恨みを募らせているような場合です。そのような人は、決定論の世界であるか否かにかかわらず、彼を殺す可能性が非常に高いと言えます。そうでない人が実行する可能性は、まず、ありません。

注:実際に実行できるかどうかにかかわらず、様々なことを思うことができます。「思うだけなら何でも思うことができる」と思うことでしょう。しかし、決定論の世界では、実際に決定されてる通りにしか思うことができないのです。「今、彼を殺したとしても、それが決定されていた未来となる」と思う人がいたとすれば、そう思うことが既に決定されていたのです。

注:実際に実行できた後でなら、「彼を殺すことを決定されていた未来にすることができた」と言えます(自由意志の事後確定性)。しかし、そのような発言をすることには何の意味もありません。

3.まとめ
 決定論の世界においては、自由意志で行動したことが(自動的に)決定されていた未来になります。それは「自由意志で未来を思うがままに決定できる」ということなのでしょうか。

 「自由意志で行動したことが決定されていた未来になる」というのは、実行された後で、すなわち過去のことになって初めて言えることです(自由意志の事後確定性)。未来のことについては行動決定ブラックボックスが思いの通りに実行させてくれるという保障はありません。そもそも、そのことが決定されている未来になっていなければ実行はできません(決定論優先の原則)。結局、思い通りに決定されている未来にすることができるということにはなりません。

 例えば、「今、彼を殺してやる。それが決定されていて未来となるんだ」と宣言したとしても、行動決定ブラックボックスが実行させてくれるとは限りません。また、実際に彼を殺すことが決定されている未来になっていなければ実行はできません。彼を殺すことを決定されている未来にすることができるかどうかは、実行前には保障されないのです。それでは、彼を殺すことを決定されている未来することができるとは言えません。

 未来が既に決定されているということから「自由意志で未来を思うがままに決定できる」という結論を引き出してしまうのは、能動的自由意志の視点に立つと、いつでも思いを行動に直結できるという前提で考えてしまうからです。結局は、見かけ上のものに過ぎない能動的自由意志を絶対視することから来る錯覚なのです。

 ところで、「右手を挙げる」と宣言した後で実際に右手を挙げた場合について考えてみましょう。そのことを、「前もって自分の未来を決定した」と解釈する人が出てくるでしょう。決定論の世界であれば、「右手を挙げることを、自由意志によって、決定されている未来にした」と解釈することができます。しかし、それは見かけ上のものに過ぎない能動的自由意志の視点からのものです。実際には、行動決定ブラックボックスが「右手を挙げる」という宣言を出力した後で右手を挙げるという行動を出力したに過ぎません。能動的自由意志が見かけ上のものに過ぎない以上、能動的自由意志による解釈は見かけ上のものと捉えなければなりません。

注:実行前になされる自由意志に基づく行動の実行の宣言は、実行される保障のないものです。「行動決定ブラックボックスが実行させてくれたとすれば」という仮定の上での話なのです。そのことは決定論の世界であるか否かということには関係しません。

注:決定論の世界では、何を思い、どう行動するかは既に決定されています。その決定されている通りに事が運んだに過ぎないのに、能動的自由意志の視点からは、「自分の思い通りに、自分の未来を決定することができた」と捉えることになります。それは少しも不思議なことではありません。能動的自由意志は見かけ上のものに過ぎないのですから。
# by f-tokieda | 2008-03-27 10:38 | 心身問題・自由意志 | Comments(0)
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